鷹番の歴史
鷹番一丁目から三丁目ができるまで
荏原郡
今の目黒区は、かつての荏原郡の一部でした。
荏原郡(えばらぐん、えはらのこおり)は武蔵国、のちの東京府に存在した郡です。
境界変更で神奈川県橘樹郡(現在の川崎市)へ転属になった地域もありましたが、郡域のほとんどは概ね現在の東京都城南地区に相当します。
(提供:Wikimedia Commons)
現在の目黒区のあたり
- 1867年(慶応3年) 武蔵県の一部となる。この年の10月、明治天皇が勅許し大政奉還成立。
- 1869年(明治2年)3月21日、品川県の一部となる。東京遷都。4月18日明治天皇、京都出発、5月9日東京着。
- 1871年(明治4年)8月29日、廃藩置県により東京府の一部となる。
碑文谷郷から碑文谷村へ
その中に、碑文谷郷という場所があり、これが碑文谷村になりました。
(碑文谷八幡宮は碑文谷村の鎮守様として知られています。)
鷹番はこの碑文谷村の字でした。
碑衾村発足
1889年(明治22年)5月1日、碑文谷村の全域と、隣の衾村の一部が合併して、碑衾村(ひぶすまむら)が発足しました。
この時点で、碑衾村の大字は碑衾村碑文谷と碑衾村衾の二つに分かれていました。東京府東部が東京市となりました。
ですから、この頃の鷹番は「東京府東京市碑衾村大字碑文谷字鷹番」でした。
また、目黒区のあたりは、北部の目黒村と、南部の碑衾村の二つの地域に分かれていました。
地図上、4:目黒村 5:碑衾村
1.品川町 2.大井村 3.大崎村 4.目黒村 5.碑衾村 6.平塚村 7.大森村 8.入新井村 9.調布村 10.池上村 11.馬込村 12.羽田村 13.蒲田村 14.六郷村 15.矢口村 16.駒沢村 17.世田ヶ谷村 18.玉川村 19.松沢村 (青:品川区 紫:目黒区 赤:大田区 橙:世田谷区)
(提供:Wikimedia Commons)
碑衾町へ、そして東横線開通
1927年(昭和2年)4月1日、碑衾村は町制施行により碑衾町(ひぶすままち)になります。
これにより、現在の目黒区北部が目黒町(めぐろまち)、南部が碑衾町となりました。
碑衾町の町役場は現在の目黒通り、碑文谷警察並びの目黒区碑文谷保健センターのあたりにあったようです。
ちなみに、目黒町の町役場は、駒沢通りを行き、山手通との交差点手前右側の、現、目黒信用金庫本店(目黒消防署中目黒出張所向かい)のあたりにあったようです。
この年に東横線碑文谷駅(現、学芸大学駅)ができ、以降、市街化が進みます。それまでは多くが畑や竹やぶだったそうです。
目黒区の誕生!
1932年(昭和7年)10月1日、荏原郡全域が東京市に編入され、目黒町と碑衾町の区域は正式に「目黒区」となります。
この際に、目黒区鷹番町(主に現在の鷹番一,二丁目のあたり)が発足します。
現在の鷹番三丁目のあたりは三谷町の一部でした。
現在も鷹番三丁目のあたりは三谷北町会として名前が残っています。
旧町村名 (1889年以前) | 大字名 (1889年現在) | 目黒区の町名 (1932年現在) |
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三田村 | 目黒村三田 | 三田 |
上目黒村 | 目黒村上目黒 | 上目黒一〜八丁目、駒場町 |
中目黒村 | 目黒村中目黒 | 中目黒一〜四丁目 |
下目黒村 | 目黒村下目黒 | 下目黒一〜四丁目 |
碑文谷村 | 碑衾村碑文谷 | 鷹番町、唐ヶ崎町、清水町、月光町、碑文谷一〜三丁目、 向原町、東町、原町、洗足、宮ヶ丘、高木町、富士見台 |
衾村 | 碑衾村衾 | 三谷町、芳窪町、大原町、柿ノ木坂、衾町、宮前町、 中根町、平町、自由ヶ丘、緑ヶ丘、大岡山 |
1943年(昭和18年)7月1日、東京都制施行。東京府の存在していた地域が東京都となりました。
そして、東京市は東京都区部(東京23区)になりました。
鷹番一丁目~三丁目の誕生!
そして、1966年(昭和41年)、区役所の業務の推進と郵便局の能率化のため、三谷町などと合わせて、鷹番一丁目~三丁目となりました。
1964年(昭和39年)~1969年(昭和44年)にかけて、
近隣の町会名も整理されました。
唐ヶ崎(からがさき)・清水町(しみずちょう)・向原(むかいはら)・月光原(げっこうはら)・油面(あぶらめん)・田道(でんどう)などの地名も無くなってしまいました。
かろうじて、小学校の名前や住区住民会議の名前,商店街の名前で残っていますが。
(出典:Wikimedia 他)
鷹番という地名について
目黒郷土資料館展示資料より
- 江戸時代にこの地域に鷹番屋敷が置かれていたことに由来します。
- 鷹番屋敷には役人がいて、鷹場の近くに住む浪人の身元を調査したり、鳥獣の乱獲禁止の監視などを行っていました。
鷹狩りと鷹番
鷹番小学校内立札より
江戸時代、目黒周辺には代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。
鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事です。
将軍が放鷹を行う場所を鷹場(たかば)、御拳場(おこぶしば)、御留場(おとめば)などといいました。
この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。
8代将軍吉宗の頃(1716~)には江戸周辺5里(約20km)の範囲に6筋が設けられました。
目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。
また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。
このあたりは、目黒筋の鷹番が居住していた所で、その高札も保存されています。
鷹番と言う地名もそんな時代の歴史を語るものです。
(平成3年3月 目黒区教育委員会)
鷹場と鷹狩り
目黒区教育委員会 平成2年3月発行「めぐろの文化財」より
鷹狩りは放鷹とも呼ばれ飼い慣らした鷹をこぶしに乗せ、山野に放して野鳥を落としたり捕まえる行事で、大和時代から行われていたといいます。
中世になり武家が政権をとるようになると、政治的なねらいを持ち領内の民情や敵地の情勢を探る傾向が強くなっています。
江戸時代の鷹狩り、鷹場
1590(天正18年)関東に入った徳川家康は生涯に1000回以上も鷹狩りを行っていますが、単に楽しむことや権力の誇示だけでなく、他領国の情勢を探ったり、また領地の要所に御殿やお茶屋を設置して地方支配の拠点としました。
農民の生活の様子を視察し、家臣の剛弱ぶりを把握し、士風刷新に役立てるという、戦国時代の武将としての目的がありました。
3代将軍家光は寛永期に江戸からおよそ5里四方(20km四方)を将軍家鷹場に指定し、1633(寛永10年)には5里(20km)から10里(40km)の間を御三家の鷹場に指定するなど、江戸時代の鷹場制度の基礎をつくっています。
4代将軍家綱の頃には鷹狩りの回数が減り、5代将軍綱吉時代には「生類憐れみの令」が公布され、鷹狩りも殆ど廃止されました。
しかし、8代将軍吉宗は1716(享保元年)鷹場制度を復活し、寛永期の指定鷹場を改めて指定し、さらに1717(享保2年)には葛西、岩淵、戸田、中野、品川、六郷(1725(享保10年)に品川筋、目黒筋となる)筋に改変されて、幕末の廃止まで継続されていました。
鷹狩りと目黒
江戸時代の目黒周辺は、駒場原、碑文谷原、広尾原などの未開の地が多く鳥の生息にはきわめて適した土地でした。
代々の徳川将軍はしばしば目黒周辺に遊猟に来ています。
3代将軍家光は、目黒周辺に6回、碑文谷原に1回来たという記録があります。
1625(寛永2年)には目黒不動に立ち寄り、それが機縁で幕府の手により不動堂が建てられたり、本堂などが修復されています。
8代将軍吉宗の時代には、駒場原の16万坪が将軍家の鷹狩りの場に接収され、御鷹場、拳場(こぶしば)、御留場(おとめば)と呼ばれ、その中に目黒筋の御用屋敷、御薬草園なども設けられ鳥見役や綱差役が置かれました。
古文書によれば、将軍家や世子の人々がこの方面に鷹狩りに来た時には、上目黒村の名主加藤家や中目黒の鏑木(かぶらき)家などがしばしば御膳所をつとめています。
寺院でも目黒不動や祐天寺がよく使用されていたようです。
また、田道にあった(現在の茶屋坂[三田2-14])一軒茶屋に家光や吉宗がしばしば腰をおろし、後代の将軍も目黒地域へ放鷹に来た際にはこの茶屋に立ち寄るのが恒例になっていたといいます。
また、将軍家鷹狩りの際の陰の演出者として活躍した綱差役川井権兵衛の話も知られています。
村の負担
目黒の村々も鷹場の御場拵、鶉あたため人足、餌付用畑の経営などさまざまな負担を負っていました。
又、鷹場法度で定められた制約も強く受けていました。
さらに享保初年まで、上、中、下目黒村の入会秣場(いりあいまぐさば)であった駒場原が収公され、村の農業生産に大きな影響を及ぼしています。
この他、鏑木(かぶらき)家 差し出し文書によれば、「御鷹狩御用於相増困窮仕候」ともあります。
- 鷹狩りの準備や後始末の雑役
- 農作業の休止
- 馬による田畑被害
- ケラ取りの御用
など、農民は大変迷惑でした。
鷹場法度
- 道や端はお鳥見の指示に従い良く整備しておくこと。
- 公儀お鷹匠であってもお鳥見の案内なくしてお鷹は使わせないこと。
- 鳥を追ってはならないこと。
- 餌差しの観察を確認すること。
- お鷹匠、餌差しの他は鳥をとってはならないこと。
- 怪しい者を見かけた時は、よく調べること。
- 新しい屋敷の建築は認めないこと。
めぐろ歴史資料館
目黒の歴史や郷土に関する資料・文献を収集・保存・展示し、区民の皆さんに公開しています。
また、展示図録や資料目録なども販売しています。入場無料
- 目黒区中目黒3-6-10
- TEL 03-3715-3571
- 開館時間:9:30~17:00
- 休館日:月曜日(祝日と重なるときは翌日)、年末年始
古民家
区指定文化財の旧栗山家主屋を移築復元し、正月飾りや三月・五月の節句飾り、七夕祭などの年中行事の再現を行なっています。入場無料。
- 目黒区碑文谷3-11-22(すずめのお宿緑地公園内)
- TEL 03-3714-8882
- 開館時間:9:30~16:30
- 休館日:月曜日(祝日と重なるときは翌日)、年末年始
区内の文化財
地域学習課 文化財係
「区内文化財めぐり」を実施しているほか、「めぐろの文化財」などを発行しています。
- TEL 03-5722-9320
区の刊行物を購入したいとき
目黒区では、文化や歴史を紹介する本、計画書・世論調査などを販売しています。
- 販売場所
- 目黒区総合庁舎 本館1階 区政情報コーナー TEL 03-5722-9480
- ガイドブックなど
- 坂道ウォーキングのすすめ:200円
- みどりの散歩道コースガイド:300円
- 目黒の遺跡:500円
- めぐろの文化財:600円 他
- 写真集
- 目黒のあゆみ:400円
- 戦後の庶民生活:800円
- 昭和の戦争記録:800円 他
- 計画書など
- 目黒区基本計画:300円
- 目黒区世論調査:400円 他
(いずれも、2010年11月現在)
落語 「目黒のサンマ」
落語「目黒のサンマ」。
あまりにも有名な話ですが、目黒郷土研究会員「仲野基道」氏によりますと、この話、実はバージョンが三つあるそうです。
「目黒のサンマ」(その1)
皆さんが良くご存知の「目黒のサンマ」は、昭和の名人と言われた(三代目)三遊亭金馬(1894~1964)の録音が代表的です。
また、(五代目)三遊亭圓楽(1932~2009)も金馬と同じバージョンの録音を残しています。
「目黒のサンマ」(その2)
先代の(八代目)林家正蔵(のちの林家彦六)(1895~1982)の残した録音を聞きますと、全く違うストーリーになっています。
「目黒のサンマ」(その3)
(二代目)柳家禽語楼(小さん)が明治時代に演じたのを、「速記」して本に残されたものがあります。
二代目小さんは武士の出だったと伝えられ、「目黒のサンマ」を創作したのではとも言われています。
しかし、今に伝えられている落語は「新作落語」を除いて皆「詠み人知らず」。確証はありません。
この話の特徴は(その1)(その2)と違い、殿様の実名が出てくるところです。
雲州松江の城主、松平出羽守(実名)が家来十数騎と遠乗りに出かけてきます。
「目黒のサンマ」噺しの中身を書くと、ますます長くなってしまいます。
いずれの噺しも下げは「サンマは目黒に限る!」とか「サンマの本場は目黒じゃ」で落とされます。
噺しの中身をお知りになりたい方は、目黒郷土研究会発行『郷土目黒』第54集 2010年(平成22年)、「目黒と落語」仲野基道氏の寄稿を御覧ください。
- 『郷土目黒』は図書館や目黒病院などにおいてあります。
目黒郷土研究会会則(抜粋)
目的
- 二、この会の目的を次の通りとする。
- (一)郷土の歴史、地理、社会、民族等を広く研究する。
- (二)郷土研究者相互の連絡、協力を密にし、会員の研究活動の便益をはかる。
- (三)各種郷土資料を収集する。
- (四)文化財保護の高揚につとめる。
現在、目黒郷土研究会は活動を休止しております。